波紋の広がることのない、けれど波ある心を持っていたいと彼女は願う



 波紋のない、けれど変化がないわけではない、たゆたう水面(みなも)。
 他者(ひと)の綺麗なところも醜いところも、全部笑顔で受け入れられる。
 感情が激しく動きはするけど、決して爆発はしない。
 そんな人間で、わたしはありたい――。
                           ◆
 夕焼けによって赤く染まった街を、僕はアリスタシアさまとアビゲイルさまを伴って歩いていく。姫たちを王宮に送り届ければ今日の仕事は終了。あとは心置きなくカナデといちゃつけるはず。
 そんなことを考えながら歩を進めていると、街の中心にある噴水が目に入ってきた。そしてそこには、噴水から少し離れて立っている少女の後ろ姿もある。
 短く切り揃えられている茶色がかった髪。お世辞にも平均に達しているとはいえない身長。彼女が誰か、それだけの特徴で僕にはすぐにわかった。ありゃカナデだ。
 ふと、イタズラ心が首をもたげた。人差し指を立てる仕草で後ろの二人に『静かに』と伝え、そろりそろりと背後からカナデに近づいていく。もちろん気配は完全に消して、だ。
 そして――
「よっ、カーナデっ!」
 彼女の背後からがばっと抱きついた。ちなみに、身長差がけっこうあるため、抱きすくめるというか、後ろから包む込む感じになっていたりする。
 カナデはくるりと顔だけでこちらに振り向いて、
「――あ、お帰り、ルゥ。無事に帰って来れたようでなによりだよ」
 驚きもなく、照れた様子も見せず、にぱっと無邪気な笑顔を浮かべてみせた。頬が少しだけ赤く染まってはいるが、それはもちろん夕日のせい。
 そう、よく夕焼けで頬が赤く染まっているように見えて、実は……、みたいな展開を本で見かけはするが、これは正真正銘、夕焼けによるものだ。彼女曰く、不意に抱きつかれるのには基本、慣れてるのだとか。
 しかし、僕ひとりが(若干とはいえ)照れているというのは、なんとなく悔しい。
 なのでカナデの両肩に手を置いて、全身をこちらに向かせた。それから彼女の両肩に置いた手はそのままに、カナデの唇に自分のそれを近づける。
「――ん……っ!?」
 触れると同時、カナデがぱちくりと目を瞬(しばたた)かせた。しかし身体を強張らせることはない。その代わりというわけではないだろうけど、彼女の体温がどんどん上がっていくのがわかった。
 カナデが瞳を閉じる。僕はそれに『黒き魂』を使ったときとは違う、けれどあれよりも抗いがたい――いや、抗おうと思えない衝動を覚え、同じく目を瞑ると、彼女の唇を舌で割り、口の中に忍び込ませた。
「……ふぁ、ん……、くぅ……」
 カナデの舌を求めるも、焦らすように口腔をまさぐっていく。
「んぁ、ひゃ……、んぅ……」
 カナデもまた、舌を伸ばしてきた。それを包み込むように絡めとる。
 ぴちゃ、ぺちゃ、と唾液が混ざり合う音。唇から漏れる甘い声、甘い吐息。少しだけ引こうとした彼女のそれに執拗に舌を絡ませると、カナデは両の手で僕の背中をぎゅっと掴んできた。
「はぁ……、ふぅ、ふあぁっ……!」
 手が僕の背から離れ、バタバタと宙を泳ぎ始める。目を開けて見てみると、彼女の頬は真っ赤に染まっていた。けど、それは照れなどの感情の表れではなくて。
「む……、んくっ……、むぅぅっ……!」
 ――あ、そろそろ限界っぽい。
 そう判断し、そっと唇を離す。「……ぷはぁっ!」と大きく息をするカナデ。
「し、死ぬかと思ったぁ……!」
「や、いつも言ってるだろ。窒息死しそうになる前にキスやめていいって」
 そうじゃないとムードもなくなるし。
「だ、だって、ルゥとしてるんだから、一秒でも長くしてたいって思うじゃん。こればっかりはしょうがないよ」
 そのストレートな物言いに、僕は一瞬言葉に詰まる。
「う……。で、でもなぁ。それでもし本当に死んだりしたら、死因、なんて説明しろと?」
「あうぅ……」
 縮こまるカナデ。しかし開き直ったかのように彼女はすぐ胸を張る。
「まあ、でもいまはそれのおかげで止まれたんだから、それはそれでいいじゃん! ほら、これ以上はここじゃマズイし、子供の目にも毒だしね」
 カナデが目で指したのはアリスタシアさまたちではなく、噴水を挟んでこちらを見ている年端もいかない二人の男女、そしてその付き添いと思われるひとりの兵士だった。
「……って、ユンじゃないか!?」
「や、二人とも。昼間から……じゃないけど、お熱いね。でも外ではほどほどにしておいたほうがいいと思うよ? それとカナデ、いまのだけで、もう充分に子供には目の毒だったと思う」
「え? そ、そう? あはははは……」
 ごまかし笑いを浮かべながら、改めて二人の子供に目を向けるカナデ。
 二人はカナデが開いている私塾に通っている子たちで、僕ともそれなりに面識があったりする。確か、目にかかるくらいまで黒髪を伸ばしている男の子はアビエル、茶色い髪をツインテールにしている女の子はライザといったはずだ。年齢はどちらも九歳。
 ふと、たたたっ、とアビエルがカナデのところに走り、彼女の服の裾を掴んだ。大方、先生を僕に取られたとか思ったのだろうが、どっこい、取られた感バリバリなのは僕のほうだ。そんなわけで、
「殲滅対象にんて――」
「ちょっと! なに軽々しく『黒き魂』の『力』を使おうとしてるの!」
 カナデのツッコミが飛んできたが、僕はそれに大声で叫び返す。
「うるさい! カナデに近寄る男は皆、僕にとって殲滅の対象になるんだ!」
「子供だよ!? 男である以前に子供で、わたしの教え子だよ!?」
「それでも男であることに変わりはないだろう! 男なんてなぁ、一皮剥けば皆ケダモノなんだぞ!」
「うん。とりあえず、カナデと激しくいちゃついてたアルちゃんが言っていいことじゃないよね」
 ユンのなんとも冷静かつ的確なツッコミに、黙らざるをえなくなる僕。
 その隙をついてカナデがアビエルとライザに帰るよう促した。くそぅ、覚えてろよ、アビエル!
 子供二人が去り、僕は話の矛先をユンに向けることにした。といっても別に八つ当たりとかじゃない。あくまで正当な文句だ。
「それはそうとユン、僕の未来視、今回はちゃんと当たったぞ。おまけにけっこう苦戦もした。ぶっちゃけ『黒き魂』を使うハメになった。更に更に、肝心の誘拐犯は取り逃がした。僕の未来視を信じてお前が一緒に来てくれりゃ、もっとスムーズにいってただろうし、取り逃がすこともなかったはずだ。どうしてくれる」
「自分の実力不足を棚に上げての発言はボク、感心しないなぁ」
「それはわかってるよ。だからまあ、今度みっちりとお前の流派の剣術を叩き込んで欲しいわけなんだが」
「了解。でもさ、アルちゃんの実力不足を棚上げするとしても、『今回は当たった』でしょ? 未来視。必ず当たるとは限らない以上、僕もそう軽々しく王宮を離れるわけにはいかないんだよ。ほら、特にいまは時期も時期だからね」
 時期も時期。それはきっと『祭典計画』のことを指しているのだろう。
「それもその通りなんだけどさ、それでも、もっとこう……。まあ、いいや。これ以上言っても不毛なだけだし。――でもさあ、なんで僕の未来視はこうも精度が低いんだろうな。本当、この精度の低さのせいで何度酷い目に遭ったか……」
「カナデに告白する前に未来視を使ったら、カナデに振られるところを見ちゃって、『こうなったら、前に進めるよう、告白して玉砕するぞ!』って告白に臨んだこともあったもんねぇ」
 あったあった。あれはマジで酷かった。外れてくれてよかったという思いはあったが、それ以上に『この精度、もうちょっとどうにかならないのか!』と思わず憤ってしまったものだ。
「ああ、それで告白してくれたとき涙目だったんだ、ルゥ」
 涙目になってたんだ……。
 がっくりと肩を落とす僕。それから、ユンの「とりあえず、雑談はアリスタシアさまたちを王宮まで送りながらにしようか」という提案により、カナデとユンを加えた僕たち五人は歩みを再開した。
 

「そういえばカナデは不意に抱きつかれるのに慣れてるって言ってたけど、なんで慣れてるの? というか、誰に抱きつかれても平気なものなの?」
 王宮までの帰り道。最初にそう話題を振ったのはユンだった。
「うん? 知らない人とかルゥ以外の男の人に抱きつかれたりしたら、そりゃ、やっぱり平気じゃないよ。それと、不意の抱きつきに慣れてるっていうのは、わたしの妹に抱きつき癖があったから」
「妹がいたんだ!?」
「初耳です……!」
「似てるの? そっくり?」
 驚きの声を上げたのは、僕を除いたユン、アリスタシアさま、アビゲイルさまの三人。や、僕は前に聞いたことがあったものだから。
「もちろんそっくりだよ、ゲイル。元気で、陽気で。ちょっと身体は弱かったけどね」
 や、アビゲイルさまのことを『ゲイル』って。カナデ、なんて失礼な女……。
 しかし、そこに突っ込む奴はいないらしく、話はそのまま続いていく。
「あの、『ちょっと身体は弱かった』と仰いましたが、過去形なのは、いまは元気になったから、なのですか? それとも……」
「後者だよ。妹は九歳のときに死んじゃったから。あ、でもこれが病死じゃなくてね。魔法の暴走による事故なんだ。わたしと違って妹は魔力、強かったから」
「そ、そうでしたの……」
 しんみりとした空気が流れる。それを望んでいないカナデは雰囲気を明るくしようと僕に話を振ってきた。
「ルゥは? ルゥは兄弟っていた?」
 ……それ、以前カナデに言ったことあるぞ。
「兄がひとりいるよ。戦いの苦手な、文系の兄上。――ユンは?」
「ボク? ボクは一人っ子。というか、天涯孤独なんだよね、これでも。剣の師匠のところにお手伝いみたいな感じで下宿させてもらえて、おまけに剣も学べたから恵まれてるほうだとは思うけど」
 や、全然恵まれてないだろ……。
「で、その師匠がまた陽気な人でね〜。あと、とんでもないお人好しでもあったよ」
「なるほど。お前のお人好し気質は、その師匠譲りなわけだ」
「え? ボクはお人好しなんかじゃないよ。むしろアルちゃんのほうがお人好しじゃない?」
「それはない!」
「そんな大声で否定しなくても。エピソードとしては……、ほら、娼館(しょうかん)で働いてた娘を身請けして、そのまま自由にしてあげた、みたいなこと、ない?」
「ないよ! そもそも娼館に行ったことすらないし! というか、なにか? お前はやったのか!?」
「ボクじゃなくて、ボクの師匠がやったんだよ。なんでも友人に無理矢理連れて行かれて軽くイライラしていたところに、いかにも不幸そうな表情をした娘がいたものだから、『幸福でない者を見ていると腹が立つ! ワシのあずかり知らぬところでならまだしも、ワシの目の前で不幸になどなるな!』って余計に苛立っちゃって、つい勢いで助けてあげちゃったんだって」
「つい勢いで人を一人助けてるのか! 芯からお人好しだな、お前の師匠!」
「その娘、買ってもらった以上は云々かんぬんって言ってたんだけどね、『お主の幸福がワシの幸福。本当に感謝しているのなら、人並みの幸福を手にし、それを見せに来るがよい』って言って真っ当な働き口を紹介してたよ」
「かっけえな、その師匠! というか、けっこうな年齢の方!?」
「ボクにとっては師匠であると同時に、優しいおじいちゃんでもあったからねぇ。まあ、普段はおじいちゃんじゃなくて師匠って呼んでたし、師匠が亡くなってからはボク、修行を兼ねて放浪の旅に出ちゃったから、正直、あまり孝行者ではなかっただろうね」
「したのか、放浪の旅」
「そりゃしたよ。己の剣に磨きをかけるためにね。そういえばその旅の途中、何度か世界征服や滅亡を企む組織やら輩やらと戦ったなぁ」
「何度か世界救ってるのかよ、お前!」
「懐かしいなぁ、傀儡(かいらい)戦争」
「懐かしがることじゃないだろ! というか、冗談だよな! 冗談だと言ってくれ!」
「えー、でもさ。アルちゃんだってカナデだって世界を救ったことくらい何度かあるでしょ?」
 ――あるわけないだろ、一度だって!
 そう言ってやりたいのは山々だったのだが。
「まあ、何度かあったけど……」
 あるんだよな、これが本当に。そういやあのエルフたち、いま元気にやってるかなぁ。それに、最後には改心したけど、魔王復活を企んでいたあいつ、ちゃんと真っ当な人生を送ってるかなぁ……。
 しかし、いくらなんでもカナデにはないだろう、こんな経験。そう思って彼女のほうに顔を向ける。そういえば彼女の妹に関すること以外は、あまり聞いてないんだよなぁ、なんて思いつつ。
 対するカナデの反応は。
「ああ、あったあった。それはもう数え切れないくらいあったよ。世界救ったこと」
「マジですか。」
「一番印象深かったのはあれだね、『第二研究所炎上事件』。
 えっとね、第二研究所で行われていた研究っていうのがさ、特殊な魔法陣を用いて、とある宝玉と世界そのものをリンクさせるっていうものだったんだけど、そこで爆発が起こって火事が起きちゃったから、さあ大変」
「それは、マジで大変そうだな……。つまりはあれだろ? 研究所の消滅はイコールで世界の消滅に繋がるという――」
「まあ、いま考えたでっちあげの事件だけどね! 実際は悩んでいる人の相談に何度か乗ってあげた過去があるってだけ」
 な、なんだ嘘かよ……。てっきり本当に何度となく世界レベルの危機を救ったことがあるのかとばかり。
 不意に、ほう、とアリスタシアさまが感嘆の息をついた。
「こうして聞いていると、割と誰にでもできることなのですね、世界を救うというのは」
「いえ、それは違うと思――」
「そうだよ、アリス」
 僕のツッコミはカナデに遮られた。というか『アリス』って、また失礼な……。
「世界を救うっていうのはね、人を一人救うっていうこととイコールなんだから。十人の人を助ければ、当然、十回世界を救ったことになるんだよ。『精神世界』っていう言葉が存在しているのがその証拠」
 それは違うだろう、と突っ込んでやりたいものの、そうキッパリと言われるとなにも言い返せなくなる。
「そんな風に世界を何度も救ってきたわたしから、ルゥとユンユンにアドバイス!
 負の感情はなるべく、負の感情として取り入れないようにしたほうがいいよ。それは人間として生きていく上での基本にして究極だからね。
 そして、仮に負の感情を取り入れてしまったとしても、あまり溜め込まないこと。できる限り速やかに吐き出すように。
 だって、負の感情に、同じ負の感情を以って臨んでも、そこには争いしか生まれないからね。わかった?」
 ぴっ! と人差し指を立ててみせるカナデ。僕とユンはそれに黙ってうなずいた。
「うん、よろしい!」
 そう言ってカナデは偉そうに胸を張る。
 そんな彼女を見ながら、ふと思った。
 この世界にやってきたばかりの頃。『黒き魂』に『呑まれ』た僕を正気に戻すことができたのは、きっとカナデがこういう考えの持ち主だったからなのだろう。そして僕が彼女を好きになった理由も、きっと。
 それからも他愛のない話を僕たちは続けた。アリスタシアさまたちを含め、もっと話していたくて道端で立ち止まったりもしながら、ゆっくりと王宮を目指す。
 結局、姫たちを王宮に送り届け終わったのは、あたりがすっかり暗闇に包まれてからのことになってしまった。
                           ◆
 街の高級住宅街にある一軒家。
 そこに住む少女――ライザは夕方に見たルアルドとカナデのキスシーン(それもディープな!)を思い出し、顔を真っ赤にしていた。
 まさか、ややもすると男勝りな印象さえ受ける、あの姉に恋人ができていたとは、と。

 そう、彼女の姓はリーゼンフォード。ライザ・リーゼンフォード。
 元の世界ではカナデの妹として存在していた、転生型来訪者だった――。




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